もう人生も終わろうという頃になると、あまりはっきりとしない思い出が脈絡なく浮かんできて、あれは中学校の頃、あれは高校の頃と、自分の経歴の中のいつ頃だったかは記憶の内容から分かるのだが、その前後の話となると、とんと思い出せないことがあるものだ。思い出というのはその部分だけが切り取られて思い出されるものかもしれない。うちらの日々の時間意識も、直線的に連続しているわけではないし、その日のうちにもはや忘却の淵に投げ込まれているものもあれば、投げ込まれていたはずなのに、どうかするとふと浮き上がってきたりするものもある。この思い出もきれいに忘れていたのに、何かの拍子に思い出されて、「あれは?」と考えているうちにすこしく内容がはっきりしたものだ。ほかの思い出とおなじように、いつの頃かははっきりしている。

 あれは高校を卒業して大学へ入った年のことだ。私は岐阜から名古屋にあるカトリック系の大学に通学することになった。どういうわけか文学部ドイツ文学ドイツ語学科というところに合格が許されて入学しただけで(他の学部、学科には点数が届かなかった)、別にゲーテやヘッセやリルケが好きだったというわけではない。高校時代には、そんな、いわゆる文豪と呼ばれる人の書いた本を、日本語でさえ読んだことはなかった。それで独文科へ入ったからといって、罪悪感をもったわけでもないし、引け目を覚えたこともない。私たちの時代は、女でもとにかく大学は出なければならない、と親たちは考えたのだ。それはそんなものだろう。何をやるかはどうでもよくて、とにかく大学へ行き、卒業することで人並みになると世間は思い込み、人並みが大事なんだと、皆思っていたし、今もそれが支配的なオピニオンだと、言ってよいだろう。なかには高校時代、ニーチェやハイネやヘルダーリンを翻訳で読んで、それをどうしても原語でよんで読みたいからと、この学科に入ってきたひともいる。

孫娘の綾香が同じ大学に入学したと聞いて、おぼろげながらに思い出したのが緑地公園での一日のことだ。あのころは文学部ドイツ語学ドイツという学科があったが、今はもうそれもないらしい。今では外国語学部ドイツ学科という看板をあげているとか。