ウグイスと声をあわせ

 

あれはいつだったか、ある日、偶然、志染の石室なるところへ行くことになりました。私の住んでいる大久保から国道一七五号線を北上していると、志(し)染(じみ)川、志(し)染(じみ)川に架かる橋のたもとで、東に向かう農道が盆地の平野にのびていました。ほう、こんなところにも農道が、と思い、初めてのことながら、もともと当てがあってドライブしていたわけでもないので、その農道に入ったのです。途中、「志染の石室」という矢印付きの標識を見かけました。それに随って小高い丘を車でのぼり、駐車場に車を止めました。ほかに停まっている車とてなく、アスファルトの地表に激しい陽光が照り付け、蝉の声が凄まじく青空を満たしておりました。下を見おろすと、山間の平野はさっきよりはかなり狭く、盆地というよりはむしろ谷間と言った方がよいかもしれません。向こうの丘が手前に近づくなか、川はほぼ中央に流れておりました。

五世紀、ふたりの皇子がここですごし、後にふたりとも天皇になったという伝説が残っているそうです。そんなことが、駐車場の外れに立っている由緒書きに書いてありました。文字通りに読めば不思議な気もします。ふたりとも、と言っても、ふたりの人物が同時に天皇になるということはありますまいから、相前後してということでしょう。あるいは、ひとりは天皇になったのに、もうひとりはならなかったのかもしれません。それは神代の昔のことですから、正確を期することはできないでしょう。そんなことを思い、ふたりの皇子はどんな経路をとって、ヤマトからここまできたのだろうといぶかしく思いました。山道をあがっていきました。

 

 森を歩き歌をうたうと鶯が一緒に歌ってくれました。

   弱った体ではほんのちょっとした傾斜も息切れがしますが、ゆっくりとあがり、またさがりました。左手には小さなダム湖が見え、水は透明でした。やがてほぼ水面の高さまで下がると、いちばん低い平面を守る壁のような岩の下に石窟があり、水が溜まっていました。近づくとバチャンと音がしました。亀だろうかと訝りながら近づき、暫く蜘蛛の巣が額や腕に絡みつくのを感じながら、暫くそこにいました。

  その水が金の水と呼ばれるのは、光の藻というのが繁殖して、春先には水がほんとうに金色になるからだそうです。

来た道をとって返すとき、あまりにも靜かなので、歌をうたいました。”Oh come, oh come Emmanuel” という歌の最後のフレーズ、Rejoyce, rejoice, Emmanuel を繰りかえしました。すると鶯の声がしはじめました。 歌いだすと鶯も歌いはじめました。それまで静かだった高い木の葉叢から、澄んだ声が青空に流れました。初めのうちは一緒に、次いで私が休むと、「歌いなさい」というように、促すように鶯の声が流れました。励まされているようでした。なんとも幸せな一時でした。

 

 

播磨国風土記美嚢郡志深里(しじみのさと)条によると5世紀頃、皇位継承争いで雄略天皇派に殺された市辺押磐皇子の二人の王子、後の23代顕宗天皇である袁奚と後の24代仁賢天皇である意奚の兄弟は志深(志染)の石室に隠れ住んだとされる。(日本書紀では「縮見山石室」と表記)。その石室の故地であると伝承されている。

ひかり藻が生息する石室の湧水は「窟屋の金水」と呼ばれる。