「私は正しい」は正しいか

 凶悪事件が世間を騒がせているときに、犯人に対する攻撃的なことを世間に発信する人の心理はどんなものか。彼あるいは彼女にとって、まずは自分が犯人ではないことを世間に表明することが重要なのかもしれない。つまり自分は犯人と同種の人間ではなく、善良で正義の側に属している人間なのだと、世間に対して顕わにしている。相模原障害者施設殺傷事件の犯人に、あるいは京都アニメーション事件の犯人に、どれほど酷いレッテル貼りを行っても、まったく有効ではない。すくなくとも本人に対しては何ら効果をもたず、反省を促すこともない。反省を呼び起こすこともない。

 自分は犯人とは別種の人間で、正義の側に属しているという思いもまちがっている。自分もいつ犯人と同じような行為をなし、同じような境位に立つかわからない。竹山道雄氏が、我々もヒトラーと同じ人間だとどこかに書いていた。ヒトラースターリン毛沢東とおなじように「私」も、悪辣なことをなしうる。あるいはその手先となりうる。

 もう人生も終わろうという頃になると、あまりはっきりとしない思い出が脈絡なく浮かんできて、あれは中学校の頃、あれは高校の頃と、自分の経歴の中のいつ頃だったかは記憶の内容から分かるのだが、その前後の話となると、とんと思い出せないことがあるものだ。思い出というのはその部分だけが切り取られて思い出されるものかもしれない。うちらの日々の時間意識も、直線的に連続しているわけではないし、その日のうちにもはや忘却の淵に投げ込まれているものもあれば、投げ込まれていたはずなのに、どうかするとふと浮き上がってきたりするものもある。この思い出もきれいに忘れていたのに、何かの拍子に思い出されて、「あれは?」と考えているうちにすこしく内容がはっきりしたものだ。ほかの思い出とおなじように、いつの頃かははっきりしている。

 あれは高校を卒業して大学へ入った年のことだ。私は岐阜から名古屋にあるカトリック系の大学に通学することになった。どういうわけか文学部ドイツ文学ドイツ語学科というところに合格が許されて入学しただけで(他の学部、学科には点数が届かなかった)、別にゲーテやヘッセやリルケが好きだったというわけではない。高校時代には、そんな、いわゆる文豪と呼ばれる人の書いた本を、日本語でさえ読んだことはなかった。それで独文科へ入ったからといって、罪悪感をもったわけでもないし、引け目を覚えたこともない。私たちの時代は、女でもとにかく大学は出なければならない、と親たちは考えたのだ。それはそんなものだろう。何をやるかはどうでもよくて、とにかく大学へ行き、卒業することで人並みになると世間は思い込み、人並みが大事なんだと、皆思っていたし、今もそれが支配的なオピニオンだと、言ってよいだろう。なかには高校時代、ニーチェやハイネやヘルダーリンを翻訳で読んで、それをどうしても原語でよんで読みたいからと、この学科に入ってきたひともいる。

孫娘の綾香が同じ大学に入学したと聞いて、おぼろげながらに思い出したのが緑地公園での一日のことだ。あのころは文学部ドイツ語学ドイツという学科があったが、今はもうそれもないらしい。今では外国語学部ドイツ学科という看板をあげているとか。

 中華料理屋でも、ランチをだす喫茶店でも、蕎麦屋でも、きちっと料理をしてだしてくれるところは少なくなった。

   ある中華料理屋で酢豚を注文したら、さっきまでビニール袋にパックされていた料理が湯煎されてでてきた。そうとしか思えない生ぬるさと、気の抜けた味なのだ。ランチをだす喫茶店でサーロインステーキ定食を注文したら、ステーキはやはりビニール袋に湯煎だったし、別の店でビーフシチューもそうだったことがある。ビニール袋かパウチか確かめたわけではないが、いずれかに違いない。蕎麦屋では鴨南蛮の鴨肉。共通しているのは熱で溶けた脂肪が肉についてない。さっき鉄板のうえで料理されたという痕跡がない。だが、それは料理につきものだったはずだ。

 悪貨は良貨を駆逐するということが妥当するとすれば、うえに述べた傾向は日本中に浸透し、日本人の味覚も変えることになるのだろう。やがてはそれがスタンダードな味、香りになるのだろう。

 今日、とある中華料理屋のカウンターに座った。なかで働いているのは若者ばかり十数名。あちらにもこちらにもガスレンジがあって、天井には排気口がいくつもあって、フライパンから出る煙や湯気がどんどん吸い込まれていき、店内は若者達の活気に溢れている。アルコールがでないなどと贅沢は言うまい。

 この店は若者を雇用し、若者は手と体を動かし、聲を掛け合いながら働いている。そういえば上にあげた店は厨房が見えないところが多かった。見えてもカウンターの向こうに一人だ。多人数の料理人が入れるような厨房はない。そうなのだ。労働力を節約しているのだ。そして賃金を削っている。そういえば、今日は行った中華料理屋は、食券を買うのではなく、注文を取りに来た。頑張ってほしいな。

 

 

午後、タロちゃん、書斎の窓際で眠る。

キットンはパソコンの前に座って、邪魔。

家中我が物顔で動き回り、自分のベッドにしている。

チビ子はキットンがきてから控えめになってしまった。かわいそうなくらいだ。猫、室内の画像のようです動物、アウトドアの画像のようです大型のネコ科動物、アウトドアの画像のようです猫、ノートパソコン、室内の画像のようです

猫、室内の画像のようです

 

2021年6月11日

2021年6月11日

 

 ブログというのをうまくやれるか、自信がない。

 

 近頃、以前にも増して自分の愚かさ、悪さ、浅薄さ、狡猾さ、過去の間違いが見えてくる。その見え方も表層的だ。何もかも、嘘だ。かつて私が言ったこと、なしたことのすべてが、嘘だ。嘘だというのは、心の奥底から湧き上がってきたものではないということだ。